神頼みに尽きる

終わりよければすべてよしという言葉がありますが、小説の場合全ての箇所が大事だと思います。それでいて、とても、書き出しが重要な気がします。最初の文で引き込まれる本があります。例えば、好きな言葉。深かったり、考えさせたり、とっかかりといいますか「ん、なんだろう?」と思わせるような吸引力があれば、人はその先の物語がとても気になります。そうすれば、その世界にどっぷりとつかりやすくなるのです。
この前、すごく気に入っていた本屋が閉店する話、という題名の小説をちょっと書こうとしたのですが、私には残念ながら文章力は皆無。結末を言ってしまうと、新しい良い書店が出来て万々歳なわけなのですが、こんな話、だれも面白いと思いません。想像力も欠けています。その出だしがこれまた平凡で、どうしようもないなぁ。とこんなに好きなのに、書くのはやっぱり難しいです。プロはスゴイなぁと思うのです。
そんな事を考えているうちにお腹が痛くなり、途中で断念したんですが、いつか私にも文才の神様が舞い降りてきて、すてきな出だしフレーズと豊かな感性、人を楽しませる流れのある文章力をもたらせてくれるのだと信じています。信じているのですから、早く降りてきてほしいわけです。

あの頃から変わってない

中学生の頃のお話ですが、多分どこの学校も有ると思うのですが、私のところもご多分に漏れず、職業体験学習なる授業がありました。地元の企業やお店で一日仕事をしたい場所を選んで、直接、自分たちで電話をかけて働かせてもらうのです。社会を垣間みる事ができ、商売の大変さを実感できるので、とても有意義なものだと思います。
私は読書好きの人とグループを組んで「書店」を選びました。大きい規模のところで、品揃えも豊富です。そこではたくさんの事を学ばせていただきました。まず、週刊誌や月刊誌といったコミックス誌のビニール紐の巻き方。これが、結構キレイに縛るのにコツがいって難しかったです。それから、レジ打ち。隣にアルバイトの店員さんがいて指導しながらも教えてくれました。あとは漫画を透明カバーで巻く機械を使っての作業。これらも一日やっているのはとても大変だな、と感じた記憶があります。
優しい店員さんたちに教わりながらも充実した一日を送ることができましたが、あれだけのたくさんの本に囲まれて一冊も読めないのは寂しいな、と思いました。一日読書し放題の職種があったのなら今でも飛びつくのにな、と思うのですが、そこまで現実は甘くないようです。

疲れていた

夜の七時頃にカフェに行くと、隣の席に女性の二入組が座っていて、よく見ると顔がそっくりで、見間違えることのないような親子でした。娘は推定32歳、母親はおそらく60歳、2人は巨大パフェ―とアイスクリームがたっぷり乗ったミルクコーヒーを飲み食いしながら気怠げに話しています。「お父さん、今日も帰ってこないのかな」この一言で、私は口に運びかけていたカップを思わず止めてしまいました。なんてヘビーな話題なのでしょうか。しかもわりと大きめな声の音量なのです。「帰ってこないでしょ、どうせ」素っ気なく言います。しかし、私はその味気ない会話の中に絆というものを垣間見た気がしました。お互いになんだかんだで心配しているのではないだろうか、これは私の希望的観測でしょうか。
私は想像します。小説で鍛えぬかれた妄想力を充分に発揮して、頭のなかでこの親子の関係性を構築しストーリーに仕立て上げます。勝手に無断で頭のなかで楽しみ始めます。浮かんできたのはマグロ漁船。荒っぽい海の男、その名も波嵐伊右衛門は荒れ狂う龍のような嵐に果敢に挑みながらも巨大な鮪を釣り上げます。「久枝、信子、捕ったど~!」まさに漢です。
ふっと気づくと、閉店時間でした。私の周囲にいたはずの客は一人もいませんでした。

捉え方は千差万別だけれども

何が良い小説なのだろう、と考えた時、とても悩んでしまいます。そもそも「イイ」ってなんなのでしょうか。新しい斬新性、ストーリー、キャラクター、世界観、心理描写、風景、台詞・・・と上げると数限りないですよね。その、基準すら突き詰めていくと曖昧になっています。心に響くものはいったいどんなものだったか、振り返っても漠然としかわかりません。それは、言葉にしてしまうとほとんどが陳腐になってしまう気がします。
好きな男性ができて、その人の「どこが好きか?」と聞かれた時、とっさに答えられません。一番なのはどこか、理由、など、口に出してしまえば限られたものになってしまうような気がするのです。人の感情はわりあいシンプルなものだと思っていますが、その実、うねうねと複雑に絡み合っているものだとも私は考えています。いつも上手く説明できたらいいのになぁ、と歯がゆく思います。この気持ちの全てを、まるごと伝えられたらとてもいいのになぁと。
だからこそ、レビューを読んでその感想が自分の読感に沿ったものだととても嬉しくなります。感じ方は人それぞれですが、他者との共通点を探すことも、とてつもなく楽しくて、なんとなくですが、安心します。

ずっと元気でいてください

一昨年の暮れ頃からあるブログに入り浸っていました。ある小説の題名を入れてネットサーフィンをしていたらたどり着いたのですが、昭和初期の生まれの方が執筆をしていて、その人は戦争を経験されていて、その当時のことや日常のことを毎日アップされているのです。驚くべきはその面白さで、わかりやすく、丁寧な文章構造、毎日楽しみにしていました。しかし、ある日を境にばったりと更新が途絶えたのです。一ヶ月待っても音沙汰なく、半年が過ぎました。熱心な読者で、ファンだったので、どうしたのだろう、と思い、でもメールフォームもコメントする場所もなかったので、コンタクトができませんでした。
身体を悪くしてしまったのでは、と不安でした。「健康です」とは書かれていても、けっこうなお年をめしているのです。病気にでもなって入院をしていたら、お花でも送りたいぐらい楽しませて頂いていたのです。
そんな心配をする日々を過ごして、先日、久しぶりに更新されているのを見た時は飛び上がるくらい嬉しかったです。内容は、なんと、ヨーロッパ旅行を細君としていたというものでした。「小生は幸せものです」と締めくくられていて、私はどうしてか、嬉しくって涙が溢れてきました。

ねこと作家の関係性について

山口県を中心とした小説を沢山書かれていて、直木賞を受賞された作家でもある古川薫著の「十三匹の猫と哀妻と私」を読み、ふと、物書きとネコとの関係性について考えました。これまで、全く考えなかった訳ではないのです。夏目漱石は「吾輩は猫である」という、かの有名な書籍を出していますし、内田百閒にいたっては「ノラや」という日記のようなものを出版しています。他にも、谷崎潤一郎、室生犀星、ヘミングウェイといった有名どころの作家も猫が好きな物書として広く知られています。
犬派の私ですが、あの気まぐれな動物も嫌いではありません。最近の交流といえば、私の自宅の直ぐ近くで、何匹も放し飼いにしているお宅があるのですが、そのうちの一匹がとても人懐っこくて、とたとたと近づいて来ては可愛い顔で「にゃあ」と鳴き、身体を擦りつけてくるんです。ずるいですよね。あれは、反則ですよ。思わず座りこんで撫でて可愛がってしまいたくなります。
いつか餌をあげようと思って、その辺で買った煮干しを目の前に放ったら、安物じゃ見向きもしないらしく、つまらなそうな顔でそっぽを向く彼は、まったく、誇り高き小さな獣です。
そんな奔放的な性格が、もしかすると、ちょっと気難しい作家と相性が合うのかもしれません。

愛すべき駄目おとこ

ハードボイルドと聞いて思い浮かぶのは、レイモンド・チャンドラーの「フィリップマーロウ」そして、日本人では藤原伊織の「テロリストのパラソル」です。史上唯一、直木&江戸川乱歩の賞をW受賞して話題になったこの作品ですが、私の周囲で知っている人は皆無でした。本離れが進んでいる今、読書界である程度の知名度を持っていても浸透していないこの現実に歯噛みします。テロパラ(と私は呼んでいます)の主人公の島崎は、物語の序盤、死んでいるように生きています。アルコール中毒で無気力なのです。駄目な男の典型ですね。
私は、物語に出てくる所謂ダメンズが好きです。「オイオイ」と読みながらに苦笑してしまうようなダメダメな人物にどうしようもなく惹かれます。例えば、織田作之助の「夫婦善哉」に出てくる甲斐性無しの維康柳吉や太宰治の描くどうしようもない男なんかもたまりません。遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」の吉岡努も酷い奴ですが、憎めないのです。
もしかして、そういうタイプが好きな属性があるのかもしれませんが、いまのところ現実世界では引っ掛かった事が無いのでよしとします。小説のこのようなキャラクターって妙な味があるんですよね。背景にあるものだとか、哀愁だとか、そういうのにキュンとくるんです。

ミステリー小説と文学

実は、ミステリアスの女王とも呼ばれるアガサ・クリスティの著作は「そしてだれもいなくなった」しか目を通した事がありません。ただ、この作品の読感は清々しいもので、一作しか触れていないのにすっかり惚れてしまいました。文字を追いながら、一生懸命になって誰が犯人かを考えていたのですが、最後まで分からくて、終盤になり、手紙という形で解明された時は苦笑して「やられた」と思わず呟いてしまいました。
推理ものといえば日本では山口雅也著の「生きる屍の死」、原寮著の「私が殺した少女」、綾辻行人著の「十角館の殺人」、乾くるみ著の「イニシエーション・ラブ」等が最近読んだのでぽんと頭に浮かびます。これらの、大どんでん返しは読み手にとって、少し悔しくもありますが、同時にワクワクもさせられます。
私はわりと、前で紹介したようなランキングや賞をとった作品には目を通していて、芥川、直木、乱歩、このミスなんかは毎回面白く楽しませてもらっています。芥川はともかく、後の三つは大衆向けで親しみやすく、本のスタートを切るのにうってつけだと思っているので、初対面の人に「おすすめある?」と聞かれたら、取り敢えずこれらの受賞作から入ってみたら?と言う事も珍しくありません。一つの目安になりますし、時代の潮流が分かるので、こういったものは後世がこの時代を知る上での重要な文学の参考にもなると思います。直木、芥川の賞は1935年に菊池寛が設立しました。約八十年の歴史があります。ぜひとも残って、ずっと続いてほしいと思っています。

そこにあったのに、何も残っていない不思議

贔屓にしていた古書店の店主が病に倒れました。私はその前を毎日のように通り、元気な姿をもう一度見られる事を願っていました。閉め切ってあるガラス戸に張られた紙の「しばらく休業します」の文字がとても寂しく、透かして見える5畳ぐらいの店内が暗く淀んでいました。
何日か経って、前を通ると営業しています。私は嬉しくなって入店しましたが、レジに座っているのは見慣れた顔ではありませんでした。そこに腰かけているのは二十歳すぎのぐらいの男性なのです。私が訝しげにしていると、彼は爽やかな笑みを浮かべ「実はじいちゃんの病が重くって、僕が代わりに店番をしているのです」とのこと。彼は孫でした。
私は以前と変わらず通いました。珍しい本が入るので重宝していたのです。それに何より、容態が心配でした。不用意に「どうなの?」と口に出来ず、帰りを静かに待っていたのです。いつか戻って来て、愛用の煙草を片手に、にこにことした笑顔を浮かべながらお客さんからこんな差し入れをしてもらった、という自慢話を聞ける日を待ち望んでいたのです。
それからしばらくして店主は戻ってきましたが、身体は痩せ細り、青褪めた顔でした。私は、快気祝いを持って行きましたが、とても喜べず「お大事に」と渡すだけでした。その後、店は閉店してしまいました。今は空きスペースになっているその前を通るたびに、ガランとしたその空間に何かを見つけようとして目を凝らします。しかし、今まで何一つ、見つけられたものはありません。

気になっている彼を今日も見る

私の行きつけの書店には「眼鏡のキミ」がいます。これは私が勝手に命名したのですが、彼(推定35歳、独身、職業はおそらく技術職)はスーツ姿で毎日のように九時過ぎにやってきては、その日に購入した本を併設されているカフェスペースで読みながら、カフェラテを啜るのです。
とても姿勢が良く、1人なのにとても楽しそうで、話した事はないのですが、いつも彼には勇気をもらっています。たまにちょっとしたデザートを注文する事もあり、そういう時はきちんと手を拭いてから読む体勢に入るのも私のお気に入りです。店員さんへの態度もすこぶる良いので「できた人」といった感じです。
私はいつも彼が見やすい位置に腰を掛け、雑誌を読んだり、ぼーっとしたり、仕事をしたりして過ごします。夜のほんの一時間程度のひと時です。
なんの物語も起きません。特別な事は何一つないのに、そんな毎日が、かけがえのないものになっています。おそらく、これから先も私達は接点を持つことは無いでしょう。(あの方は私の事を認識されていないと思いますし)でも、そういうちょっとした、本当に些細な事に幸せを感じられる事をありがたくも思います。通いの店があるというのはなんとも良いものです。

ケータイ小説の大きな魅力はずばり、「時間も場所も問わず読みたいだけ読める事」だと思います。私は現に、電車の中や炊事の後、寝る前などで読み進めています。特に旦那さんが構ってくれない時なんかは・・・。