小説をプレゼントして下さい。

何かの企画で三万円分の本をプレゼントしてくれる、というのがありました。羨ましさに歯ぎしたくなる感覚です。それ、私がやって欲しいです。
常々、長編であればあるほど物語は面白くなる、と思っています。話の幅が広がって、読み応えがあります。もし好きな本を買ってもらえるということであれば太く分厚いものを購入してもらいます。値段も確かに高いのですが、それよりもの執筆量の多さが情熱を表している気がするのです。短いからどうのとかではないのです。短編でも面白いお話は山ほどありますし、そういったものに触れるのもとても好きです。
先日、ある友人に漫画を進めてもらいました。超大作で冊数は30巻以上。これだけのものを書ききるというのは物凄く労力のいることです。面白い事を発見しました。どんどん読み進めるうちにどんどん絵柄が変化していくのです。小説はあまりそういった変貌はしていきませんが、絵だとそれが顕著に出るのです。
コミックとノベルの違いはいろいろありますが、やっぱり、好きな本を定額分購入していいと言われたら迷わず文字のものを選びます。さくっと読めてわかりやすいものよりも、言葉の羅列をたどるほうが私には向いているのです。

気持ちはあるのに伴わない

いつも常々思うことがあります。それは「すごい!」と思った作品を他人に紹介することの難しさ、伝わらなさ、です。落語家やそういった職業についている人などは大変上手に、思わずこちらが全然興味がなかったのに手に取ってみたくなるほどの巧みな弁舌で虜にしてしまいます。
世にはスピーチというものがあります。人の心を動かしてしまうしゃべり方や言葉があるのです。ある番組でそれは「リピート」つまり繰り返すことが肝心だと言っていました。単純だけど物凄く伝えたいことを二度三度と何度でも口にするのです。それから、間のとり方、抑揚、目の動き、身振り手振りなど、パフォーマンス力も大切です。ある映画で国王がスピーチするものがあったのですが、あれはとてもおもしろかったです。
今まで歴史を多少なりとも動かしてきた人物達、それは「良い・悪い」関係なく、人をどれだけ動かしたか、カリスマ性があったかが重要なポイントだと思います。「伝える力」というのはとてもむずかしく、それは常々思うのです。特に、あらすじや要点だけを押さえて咄嗟に紹介することは難しすぎます。詳細すぎてもいけないし、ざっくりすぎても何が何だか分かりません。物事の本質を捉えアウトプットする、それを私は身に付けたいと望んでいます。

とてもじゃないが、捨てられない。

本棚を眺めていると、あることに気付きます。それは、かなり傷んでいる本が混ざっているということです。題名を眺めて「なるほどなぁ」と思い当たりました。好きで繰り返し読んでいる本ほど痛みが激しいのです。気に入った本は何度も読み返してしまいますので、そのせいなのですが、「これは、もう一度買わなきゃな」と思わず苦笑をこぼしてしまうのも含まれていて、ああ、これが一つの目安になるなぁとも考えたりします。それは、自分の好きなものがそういうところで出るのだな、という事です。
使い込まれたもの、というのが私はとても好きです。ですからよく、小道具屋さんに行って、古めかしい家具や雑貨を眺めます。見ているだけで幸せで、どんな家でどういう風に置かれたんだろう。または、使われたんだろうって考えるとワクワクします。「この食器棚はきっと西洋風の瀟洒な邸宅にいたんだろうな」とかそういうのを想像するのが堪らない楽しみで嗜好です。
この前、付喪神の小説を読んで、「ああ、いいなぁ」と思ったので、古い時代だったり過去のものに対して異常なぐらいの愛を感じてしまうのです。モノを大事にしすぎるけれど、バッサリ捨てられる潔さも持っているのですが、書籍はやっぱり捨てられません。どんどん溜まっていくのです。

どうしてこうなったんだ!

私の通っていた高校はアルバイトができるところでした。なので、試験や部活といったものの支障にならない程度で、働ける場所を探しました。やっぱり「好きな空間で働きたい!」という思いがとても強くそれには「本屋しかない!」と思ったのです。さっそく、近くにある書店を回りって、自分の雰囲気に合いそうな場所を探します。とても楽しい時間でした。どこを見渡しても眼福です。「ここで働いたら」と胸踊らせ、妄想の世界に浸ります。
年齢制限のある場所もありましたが、いくつかの場所でその頃の私の歳でも面接をしてくれるところがあり、迷いながらも一つの店舗に決めて、生まれて初めて履歴書を書きました。写真を撮って、筆記事項を記入して完成させ、電話をしようと思ったのですが、なんと、その時、突然、親機が故障。仕方なく、直接、訪問しようと思ったのですが、従来がビビりの私です。「失敗してしまったら」「場所が覚えられるかな」「うまくカバーがまけるか」と途端に怖気ずいてしまって、足が進まなくなってしまいました。
その時、横を見るとガソリンスタンドがありました。私は、なぜか吸い寄せられるようにそこに入って、気付いた時には面接をしていました。そして、採用。
なんでこうなったんだろう、と不思議に思いながらも肉体労働は楽しく、しかし、自分の不可解さに首を傾げるしかありませんでした。

神頼みに尽きる

終わりよければすべてよしという言葉がありますが、小説の場合全ての箇所が大事だと思います。それでいて、とても、書き出しが重要な気がします。最初の文で引き込まれる本があります。例えば、好きな言葉。深かったり、考えさせたり、とっかかりといいますか「ん、なんだろう?」と思わせるような吸引力があれば、人はその先の物語がとても気になります。そうすれば、その世界にどっぷりとつかりやすくなるのです。
この前、すごく気に入っていた本屋が閉店する話、という題名の小説をちょっと書こうとしたのですが、私には残念ながら文章力は皆無。結末を言ってしまうと、新しい良い書店が出来て万々歳なわけなのですが、こんな話、だれも面白いと思いません。想像力も欠けています。その出だしがこれまた平凡で、どうしようもないなぁ。とこんなに好きなのに、書くのはやっぱり難しいです。プロはスゴイなぁと思うのです。
そんな事を考えているうちにお腹が痛くなり、途中で断念したんですが、いつか私にも文才の神様が舞い降りてきて、すてきな出だしフレーズと豊かな感性、人を楽しませる流れのある文章力をもたらせてくれるのだと信じています。信じているのですから、早く降りてきてほしいわけです。

あの頃から変わってない

中学生の頃のお話ですが、多分どこの学校も有ると思うのですが、私のところもご多分に漏れず、職業体験学習なる授業がありました。地元の企業やお店で一日仕事をしたい場所を選んで、直接、自分たちで電話をかけて働かせてもらうのです。社会を垣間みる事ができ、商売の大変さを実感できるので、とても有意義なものだと思います。
私は読書好きの人とグループを組んで「書店」を選びました。大きい規模のところで、品揃えも豊富です。そこではたくさんの事を学ばせていただきました。まず、週刊誌や月刊誌といったコミックス誌のビニール紐の巻き方。これが、結構キレイに縛るのにコツがいって難しかったです。それから、レジ打ち。隣にアルバイトの店員さんがいて指導しながらも教えてくれました。あとは漫画を透明カバーで巻く機械を使っての作業。これらも一日やっているのはとても大変だな、と感じた記憶があります。
優しい店員さんたちに教わりながらも充実した一日を送ることができましたが、あれだけのたくさんの本に囲まれて一冊も読めないのは寂しいな、と思いました。一日読書し放題の職種があったのなら今でも飛びつくのにな、と思うのですが、そこまで現実は甘くないようです。

疲れていた

夜の七時頃にカフェに行くと、隣の席に女性の二入組が座っていて、よく見ると顔がそっくりで、見間違えることのないような親子でした。娘は推定32歳、母親はおそらく60歳、2人は巨大パフェ―とアイスクリームがたっぷり乗ったミルクコーヒーを飲み食いしながら気怠げに話しています。「お父さん、今日も帰ってこないのかな」この一言で、私は口に運びかけていたカップを思わず止めてしまいました。なんてヘビーな話題なのでしょうか。しかもわりと大きめな声の音量なのです。「帰ってこないでしょ、どうせ」素っ気なく言います。しかし、私はその味気ない会話の中に絆というものを垣間見た気がしました。お互いになんだかんだで心配しているのではないだろうか、これは私の希望的観測でしょうか。
私は想像します。小説で鍛えぬかれた妄想力を充分に発揮して、頭のなかでこの親子の関係性を構築しストーリーに仕立て上げます。勝手に無断で頭のなかで楽しみ始めます。浮かんできたのはマグロ漁船。荒っぽい海の男、その名も波嵐伊右衛門は荒れ狂う龍のような嵐に果敢に挑みながらも巨大な鮪を釣り上げます。「久枝、信子、捕ったど~!」まさに漢です。
ふっと気づくと、閉店時間でした。私の周囲にいたはずの客は一人もいませんでした。

捉え方は千差万別だけれども

何が良い小説なのだろう、と考えた時、とても悩んでしまいます。そもそも「イイ」ってなんなのでしょうか。新しい斬新性、ストーリー、キャラクター、世界観、心理描写、風景、台詞・・・と上げると数限りないですよね。その、基準すら突き詰めていくと曖昧になっています。心に響くものはいったいどんなものだったか、振り返っても漠然としかわかりません。それは、言葉にしてしまうとほとんどが陳腐になってしまう気がします。
好きな男性ができて、その人の「どこが好きか?」と聞かれた時、とっさに答えられません。一番なのはどこか、理由、など、口に出してしまえば限られたものになってしまうような気がするのです。人の感情はわりあいシンプルなものだと思っていますが、その実、うねうねと複雑に絡み合っているものだとも私は考えています。いつも上手く説明できたらいいのになぁ、と歯がゆく思います。この気持ちの全てを、まるごと伝えられたらとてもいいのになぁと。
だからこそ、レビューを読んでその感想が自分の読感に沿ったものだととても嬉しくなります。感じ方は人それぞれですが、他者との共通点を探すことも、とてつもなく楽しくて、なんとなくですが、安心します。

ずっと元気でいてください

一昨年の暮れ頃からあるブログに入り浸っていました。ある小説の題名を入れてネットサーフィンをしていたらたどり着いたのですが、昭和初期の生まれの方が執筆をしていて、その人は戦争を経験されていて、その当時のことや日常のことを毎日アップされているのです。驚くべきはその面白さで、わかりやすく、丁寧な文章構造、毎日楽しみにしていました。しかし、ある日を境にばったりと更新が途絶えたのです。一ヶ月待っても音沙汰なく、半年が過ぎました。熱心な読者で、ファンだったので、どうしたのだろう、と思い、でもメールフォームもコメントする場所もなかったので、コンタクトができませんでした。
身体を悪くしてしまったのでは、と不安でした。「健康です」とは書かれていても、けっこうなお年をめしているのです。病気にでもなって入院をしていたら、お花でも送りたいぐらい楽しませて頂いていたのです。
そんな心配をする日々を過ごして、先日、久しぶりに更新されているのを見た時は飛び上がるくらい嬉しかったです。内容は、なんと、ヨーロッパ旅行を細君としていたというものでした。「小生は幸せものです」と締めくくられていて、私はどうしてか、嬉しくって涙が溢れてきました。

ねこと作家の関係性について

山口県を中心とした小説を沢山書かれていて、直木賞を受賞された作家でもある古川薫著の「十三匹の猫と哀妻と私」を読み、ふと、物書きとネコとの関係性について考えました。これまで、全く考えなかった訳ではないのです。夏目漱石は「吾輩は猫である」という、かの有名な書籍を出していますし、内田百閒にいたっては「ノラや」という日記のようなものを出版しています。他にも、谷崎潤一郎、室生犀星、ヘミングウェイといった有名どころの作家も猫が好きな物書として広く知られています。
犬派の私ですが、あの気まぐれな動物も嫌いではありません。最近の交流といえば、私の自宅の直ぐ近くで、何匹も放し飼いにしているお宅があるのですが、そのうちの一匹がとても人懐っこくて、とたとたと近づいて来ては可愛い顔で「にゃあ」と鳴き、身体を擦りつけてくるんです。ずるいですよね。あれは、反則ですよ。思わず座りこんで撫でて可愛がってしまいたくなります。
いつか餌をあげようと思って、その辺で買った煮干しを目の前に放ったら、安物じゃ見向きもしないらしく、つまらなそうな顔でそっぽを向く彼は、まったく、誇り高き小さな獣です。
そんな奔放的な性格が、もしかすると、ちょっと気難しい作家と相性が合うのかもしれません。

ケータイ小説の大きな魅力はずばり、「時間も場所も問わず読みたいだけ読める事」だと思います。私は現に、電車の中や炊事の後、寝る前などで読み進めています。特に旦那さんが構ってくれない時なんかは・・・。