ずっと元気でいてください

一昨年の暮れ頃からあるブログに入り浸っていました。ある小説の題名を入れてネットサーフィンをしていたらたどり着いたのですが、昭和初期の生まれの方が執筆をしていて、その人は戦争を経験されていて、その当時のことや日常のことを毎日アップされているのです。驚くべきはその面白さで、わかりやすく、丁寧な文章構造、毎日楽しみにしていました。しかし、ある日を境にばったりと更新が途絶えたのです。一ヶ月待っても音沙汰なく、半年が過ぎました。熱心な読者で、ファンだったので、どうしたのだろう、と思い、でもメールフォームもコメントする場所もなかったので、コンタクトができませんでした。
身体を悪くしてしまったのでは、と不安でした。「健康です」とは書かれていても、けっこうなお年をめしているのです。病気にでもなって入院をしていたら、お花でも送りたいぐらい楽しませて頂いていたのです。
そんな心配をする日々を過ごして、先日、久しぶりに更新されているのを見た時は飛び上がるくらい嬉しかったです。内容は、なんと、ヨーロッパ旅行を細君としていたというものでした。「小生は幸せものです」と締めくくられていて、私はどうしてか、嬉しくって涙が溢れてきました。

ねこと作家の関係性について

山口県を中心とした小説を沢山書かれていて、直木賞を受賞された作家でもある古川薫著の「十三匹の猫と哀妻と私」を読み、ふと、物書きとネコとの関係性について考えました。これまで、全く考えなかった訳ではないのです。夏目漱石は「吾輩は猫である」という、かの有名な書籍を出していますし、内田百閒にいたっては「ノラや」という日記のようなものを出版しています。他にも、谷崎潤一郎、室生犀星、ヘミングウェイといった有名どころの作家も猫が好きな物書として広く知られています。
犬派の私ですが、あの気まぐれな動物も嫌いではありません。最近の交流といえば、私の自宅の直ぐ近くで、何匹も放し飼いにしているお宅があるのですが、そのうちの一匹がとても人懐っこくて、とたとたと近づいて来ては可愛い顔で「にゃあ」と鳴き、身体を擦りつけてくるんです。ずるいですよね。あれは、反則ですよ。思わず座りこんで撫でて可愛がってしまいたくなります。
いつか餌をあげようと思って、その辺で買った煮干しを目の前に放ったら、安物じゃ見向きもしないらしく、つまらなそうな顔でそっぽを向く彼は、まったく、誇り高き小さな獣です。
そんな奔放的な性格が、もしかすると、ちょっと気難しい作家と相性が合うのかもしれません。

愛すべき駄目おとこ

ハードボイルドと聞いて思い浮かぶのは、レイモンド・チャンドラーの「フィリップマーロウ」そして、日本人では藤原伊織の「テロリストのパラソル」です。史上唯一、直木&江戸川乱歩の賞をW受賞して話題になったこの作品ですが、私の周囲で知っている人は皆無でした。本離れが進んでいる今、読書界である程度の知名度を持っていても浸透していないこの現実に歯噛みします。テロパラ(と私は呼んでいます)の主人公の島崎は、物語の序盤、死んでいるように生きています。アルコール中毒で無気力なのです。駄目な男の典型ですね。
私は、物語に出てくる所謂ダメンズが好きです。「オイオイ」と読みながらに苦笑してしまうようなダメダメな人物にどうしようもなく惹かれます。例えば、織田作之助の「夫婦善哉」に出てくる甲斐性無しの維康柳吉や太宰治の描くどうしようもない男なんかもたまりません。遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」の吉岡努も酷い奴ですが、憎めないのです。
もしかして、そういうタイプが好きな属性があるのかもしれませんが、いまのところ現実世界では引っ掛かった事が無いのでよしとします。小説のこのようなキャラクターって妙な味があるんですよね。背景にあるものだとか、哀愁だとか、そういうのにキュンとくるんです。

ミステリー小説と文学

実は、ミステリアスの女王とも呼ばれるアガサ・クリスティの著作は「そしてだれもいなくなった」しか目を通した事がありません。ただ、この作品の読感は清々しいもので、一作しか触れていないのにすっかり惚れてしまいました。文字を追いながら、一生懸命になって誰が犯人かを考えていたのですが、最後まで分からくて、終盤になり、手紙という形で解明された時は苦笑して「やられた」と思わず呟いてしまいました。
推理ものといえば日本では山口雅也著の「生きる屍の死」、原寮著の「私が殺した少女」、綾辻行人著の「十角館の殺人」、乾くるみ著の「イニシエーション・ラブ」等が最近読んだのでぽんと頭に浮かびます。これらの、大どんでん返しは読み手にとって、少し悔しくもありますが、同時にワクワクもさせられます。
私はわりと、前で紹介したようなランキングや賞をとった作品には目を通していて、芥川、直木、乱歩、このミスなんかは毎回面白く楽しませてもらっています。芥川はともかく、後の三つは大衆向けで親しみやすく、本のスタートを切るのにうってつけだと思っているので、初対面の人に「おすすめある?」と聞かれたら、取り敢えずこれらの受賞作から入ってみたら?と言う事も珍しくありません。一つの目安になりますし、時代の潮流が分かるので、こういったものは後世がこの時代を知る上での重要な文学の参考にもなると思います。直木、芥川の賞は1935年に菊池寛が設立しました。約八十年の歴史があります。ぜひとも残って、ずっと続いてほしいと思っています。

そこにあったのに、何も残っていない不思議

贔屓にしていた古書店の店主が病に倒れました。私はその前を毎日のように通り、元気な姿をもう一度見られる事を願っていました。閉め切ってあるガラス戸に張られた紙の「しばらく休業します」の文字がとても寂しく、透かして見える5畳ぐらいの店内が暗く淀んでいました。
何日か経って、前を通ると営業しています。私は嬉しくなって入店しましたが、レジに座っているのは見慣れた顔ではありませんでした。そこに腰かけているのは二十歳すぎのぐらいの男性なのです。私が訝しげにしていると、彼は爽やかな笑みを浮かべ「実はじいちゃんの病が重くって、僕が代わりに店番をしているのです」とのこと。彼は孫でした。
私は以前と変わらず通いました。珍しい本が入るので重宝していたのです。それに何より、容態が心配でした。不用意に「どうなの?」と口に出来ず、帰りを静かに待っていたのです。いつか戻って来て、愛用の煙草を片手に、にこにことした笑顔を浮かべながらお客さんからこんな差し入れをしてもらった、という自慢話を聞ける日を待ち望んでいたのです。
それからしばらくして店主は戻ってきましたが、身体は痩せ細り、青褪めた顔でした。私は、快気祝いを持って行きましたが、とても喜べず「お大事に」と渡すだけでした。その後、店は閉店してしまいました。今は空きスペースになっているその前を通るたびに、ガランとしたその空間に何かを見つけようとして目を凝らします。しかし、今まで何一つ、見つけられたものはありません。

気になっている彼を今日も見る

私の行きつけの書店には「眼鏡のキミ」がいます。これは私が勝手に命名したのですが、彼(推定35歳、独身、職業はおそらく技術職)はスーツ姿で毎日のように九時過ぎにやってきては、その日に購入した本を併設されているカフェスペースで読みながら、カフェラテを啜るのです。
とても姿勢が良く、1人なのにとても楽しそうで、話した事はないのですが、いつも彼には勇気をもらっています。たまにちょっとしたデザートを注文する事もあり、そういう時はきちんと手を拭いてから読む体勢に入るのも私のお気に入りです。店員さんへの態度もすこぶる良いので「できた人」といった感じです。
私はいつも彼が見やすい位置に腰を掛け、雑誌を読んだり、ぼーっとしたり、仕事をしたりして過ごします。夜のほんの一時間程度のひと時です。
なんの物語も起きません。特別な事は何一つないのに、そんな毎日が、かけがえのないものになっています。おそらく、これから先も私達は接点を持つことは無いでしょう。(あの方は私の事を認識されていないと思いますし)でも、そういうちょっとした、本当に些細な事に幸せを感じられる事をありがたくも思います。通いの店があるというのはなんとも良いものです。

小説に感化されやすい同盟を作りたい

「そういえば、こんな人がいてね」という話をしようとして、ふと気付き、青褪めることがあります。そんな人、というのが小説の登場人物だという事を失念していたのです。印象が強すぎて、生身の人間と混在してしまうのです。このような体験は異常なのではないか、とずっと思ってきました。言葉とか風景もそうです。強く心に刻みすぎると、現実か創作の世界のモノなのか分からなくなる時があるのです。恐ろしい事ではないか、これはもしかして、マズイのではないかと悩みました。あまりに深みにはまると抜け出す事ができなくなるのでは、と思うと、本の世界もあながち安全なのではないのかも、と危惧していたのです。ところがその懸念は簡単に晴れました。映画好きの友人にこの悩みを打ち明けてみたところ、彼も感化されやすいらしく、観た映画の主人公に二日くらい浸かってしまうのだそうです。ある時の彼は西部劇のポリス、ある時は凶悪な殺人犯、またある時はヒーローなのだそうです。口調も変わり、服装も変わり、「周囲から訝しがられるよ、あはは」と笑っていて、私は自分だけではないのだ、と心の底から安堵しました。
むしろ、私のほうが知人や友人に置き換えているだけ、幾分マシだとも思いました。自分が変わってしまう訳ではないのですから。感化、そう、感化なのです。嵌るととことん、その人物を追及してしまうのです。物語では語られない、ディープな部分まで。架空の人物の前後の物語を頭の中で作ってしまい、いつしか、その人物は私の知人、友人になっているのです。いつか、同じように感化されやすい人々を集めた同盟を作りたいと思っています。
きっと、無秩序で楽しい会話ができるに違いないのです。

過去の作家の息遣い

本を読むと「こんな言葉があったのか」という事に何度も驚かされます。特に漢字は膨大で、全部知る事なんて到底不可能なのではないだろうか、という気がしてきます。
先月読んだ本に「破落戸」という言葉が出てきて、横にルビがふってありました。これは「ならずもの」と読むのだそうです。この言葉は「ならずもの」の他にも「ごろつき」とも読めるのだそうですが、難解ですね。文豪の作品を読むとルビがふっていなければ読めない漢字が多々あります。ルビがふってあっても意味の分からないものもありますし、江戸時代の作家にもなると、その文章はチンプンカンプンです。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は岩波書店から出版されているのを読んだのですが、とても骨が折れました。すごく面白いのですが。明治時代、大正時代の作家でも読むのがとても大変なのだから、江戸時代にもなると風俗も土地も違うので読み解くのは尋常ではありません。しかし、文章のテンポと描写の凄みや迫力が素晴らしいのです。これはなかなか現代の作家にはだせないものなのではないでしょうか。テンポと言えば、夏目漱石の「草枕」の冒頭は絶技に近く、何度も口ずさみたくなります。考えれば、当時や昭和の初期はパソコンなるものはなく、全て手書きをし、分からないことは辞書や文献を漁るか直接知識人に聞くことしか手段がないのですから、その膨大な知識量や活力には頭の下がる思いです。
今では簡単に調べられる事が、当時はどれほど大変だった事か。考えれば考えるほど、名作の凄さに、古い時代の作家の息遣いに尊敬の念を抱いてやみません。

サイン会の幸福

作家さんのサイン会やイベントに参加したことのある本好きさんは多いのではないでしょうか。私もよく行きます。特に好きなのが、対談で、小さいカフェを貸し切って開催されたりします。ワンドリンク制で参加費がとても安いんです。安いのに、濃厚な時間が過ごせるのです。作家さんは文章を書くことを生業としています。一つの物語を書ききる事はとても大変なことです。物語は一本の線です。起伏はありますが、その主張はぶれることがないんです。だからこそ、語る言葉にも信念がこもっています。作品を書く上で題材にするものをこれでもかというまで調べてきているから、知識量も豊富で、ユーモアがあります。
それに、サイン会やイベントは、なかなか会えない作家さんとの距離がとても近くなります。本でしか関われたかった作家さんが眼の前で喋っているのです。たまらない興奮です。たいてい、こういうイベントが開催されるのは新刊を出した時なので、新しい本に作家さん自らサインをして貰えるのです。しかも、眼の前でです。これは、もう、たまらないですね。本に自分の名前も作家さんのその手で書いてくれるんです。一言二言、話も出来たりもします。この時に何て言うか考えると緊張しますが、幸せな時間です。本人を眼の前にすると、どうしてもあがってしまうのですが。「ファンです」「小説好きです」「これからも書いてください」言いたい言葉はもっともっと深いのに、結局これしか言えなかったりします。だけど、それに対して「ありがとう」と言ってもらえるのです。作家さんによっては握手もしてくれます。そうして手に入れたサイン本は大切な本を置く棚に飾っておくのです。辛い時、開いてサインのところを見れば、頑張ろうと思えます。そしてまた、作家さんのイベントやサイン会をチェックし、参加するのです。何度も行けば覚えてもらえます。本がぐっと近くなるのです。
思い出すだけで、たまらない思い出です。

カバーをかけますか?という素敵な言葉

「カバーをかけますか?」書店で本を買った時に店員さんからかけられるこの言葉、私はとても好きです。店員さんが自らの手で私の選んだ本にカバーをかけてくれるのです。今は当たり前の光景かもしれません。けれど、これはサービスです。わざわざ一冊ずつプロのやり方で包んでくれるのです。私は店員さんがカバーをしてくれる時の手つきや眼元をよく観察します。
言いすぎかもしれませんが、まるで我が子を眼の前で慈しんで産湯に入れてくれるような、そんな感覚になります。私の大切な本をなるべく傷つかないように包装してくれるのです。私はその瞬間、本屋の店員さんに心から感謝を述べます。「ありがとう」口では軽く、心の中ではありったけの気持ちを込めて。
カバーはたいてい店のロゴが入っています。後で、ああ、これはあのお店で買ったのだ。と、思い出したりもします。本を我が子のように可愛がる本好きはきっと、本を手に入れるまでの一連の流れを覚えているに違いありません。たまに、何かのキャンペーンでいつもとは違う種類のカバーがあったりします。「どちらにしますか?」もちろん、選ぶのはキャンペーン中のカバーです。キャンペーン中のカバーが数種類ある場合、カバーの種類の数に合わせて買う本を増やしたりしてしまいます。本末転倒ですが、これはこれでとても楽しいです。
一生懸命働いたお金を出して買った愛しい本です。なるべく大切にしてあげたいですし、大切に読みたいです。「カバーをかけますか?」やはりこの言葉は素晴らしい言葉です。

ケータイ小説の大きな魅力はずばり、「時間も場所も問わず読みたいだけ読める事」だと思います。私は現に、電車の中や炊事の後、寝る前などで読み進めています。特に旦那さんが構ってくれない時なんかは・・・。